いつからだろう?
気付けば色眼鏡をかけられ生きている。
気付けば色眼鏡をかけられ生きている。
人は世界を「自分の見えた」ように見る。
“多様性″という言葉を最近はよく聞くが、
それは、その色眼鏡を外し裸眼で見ろ!
という事の様に思う。
これからは、外側の社会に適合して生きる時代は終わり、一人ひとりが自分の心や感情を大切にしながら生きる時代になっていく。
素晴らしい可能性がある一方で、
正解がない世界だから、不安で怖い人も多いと思う。特に僕らは子供の頃から正解があると教えられた世代だからすごく怖いと思う。
誰かが決めた指標やものさしが機能しなくなり、誰かの正解じゃない、自分の正解へ挑む勇気が求められてくる時代。
だからこそ、自分の中にある「大切な何か」
につながる必要がある。
じゃないと、自分の人生は糸が切れた凧のように、フラフラ流されて不安の中を進んでいくことになる。
裸眼で見えた景色
自分の正解
それを使命とでも言うのか?
人はある瞬間に人生の使命と出会う。
それは命の有限性をはっきりと感じたとき。
使命とは文字通り、
自らの命を何に使うのか?
その生き方を自分で決めること。
自分の命は限りある有限なものだと強く認識した者ほど、自分の使命が何か考えようとする。そして、使命持たずして生きることは出来なくなると言ってもいい。
僕は葬儀屋に勤めていたとき、初めて「命は限りがあること」を肌で感じた。
もちろん、バカではないので、以前から人はいつか死ぬと認識はしていた。
しかしながら、命の有限性を体感と共に初めて知ったのはこの期間だ。
しかも、それは突然くるとも。
使命とは限りある命を、永遠に続く何かに変えたいと願う行為だと思う。
だから、人は自分の命の有限性を感じる経験を通して、自らの使命感に目覚めることができる。
自分の人生があと5年しかないかもしれないと本気で思ったら…
その5年でお金をたくさん残そうと思うか?
大きな家を建てようと思うか?
きっと思わないだろう。
それは命の有限性を感じた後に、その命をまた有限なものに変えようとする行為だからだ。それをしようと思う者は誰もいない。
自分の人生があと5年しかないかもしれないと本気で思ったときに、人が考えるのは、この限りある命を、悠々の何かに変えたいという願いだ。
それが使命だ。
これは5年でも50年でも同じ。
同じ5年でも、5年もあると思う奴もいれば、
5年しかないと思う奴もいる。
それは50年だって同じことよ。
要は、「あ〜自分の人生には限りがある。有限のものなんだ。」ということを強く感じ、知ることによって、人は使命というものを見つけ出そうとし、その感じ方の度合いによって、その使命にどれだけ忠実に生きようとするかが決まる。
今、僕たちは日本という豊かな国で、戦争もなく、ほとんどの人は3度の食事が取れ、服も着れれば寝る家もある。スマホや家電やらで情報や物に不足感を感じることはまずない。
僕たちはこんな幸せな時代に日本という安全な国に生きていることによって、自分の人生がいつまでも続くと勘違いしている。
いや、正確に言うなら、命に限りがあるということは知識として知ってはいながらも、
それはまだまだ先にあるようなものと思い、そして…そんな生き方をしている。
だから、自分の貴重な人生という時間を使って、少しでも多くのお金を稼ごうとか、少しでも大きな家に住みたいとか考えているのかもしれない。
それが結局は形ある有限なものだと分かっていても。
あなたは命の有限性を感じることができるか?
自身の命の有限性を感じることができる人は、いつ如何なる時を生きても、自らの使命を見つけ生きることができるのだろう。
あなたは、また迎える新しい年、
2020年を何のために生きるのか?
これからの時代、
一人ひとりに求められるのは
「生きる力」です。
「生きる力」とは「想像力」です。
どんな世の中であろうとも、どんな状況になろうとも、今できることは無限にある。
しかしながら、問題なのは「今できることは無限にある」と思えるだけの想像力がない人。その想像力が育てられているかどうかです。
成功したいと願う若者は「そのためには何が必要か?」と問われれば、「もっと努力しなければならない」と自分に目を向けがちです。一方で、世間からすでに成功者と認められている人が「そうなるために何が必要だったか?」と問われれば、例外なくこう答える。
「私の成功は出会いによってもたらされました。出会った方々のおかげです」
つまりは、成功も幸せも人が運んでくるもの。それだけではなく、その人の持つ無限の可能性を開花させてくれるのも、それにふさわしい人との出会いです。
人生は誰と出会うかで決まります。
あなたは2020年、
誰に出会い・何を選ぶのか?
0コメント