行動に「理由を添える」だけで、その行動は周りからの理解と譲歩を得やすくなります。
驚くべきことに、その理由が意味をなしているかどうかは重要ではないんです。
「〇〇なので」というだけで、その行動が正当化されるのです。
例えば…
「ご迷惑をおかけします。道路工事をしています」
という看板は何も伝えていない。
高速道路で行われている工事といえば道路工事以外にはないのだから、窓の外を見れば何が起きているかはすぐわかる。
それでも、理由が書かれているだけで、私たちの気持ちは落ち着く。
逆に理由がないだけで、いらいらさせられる。
ある日、成田空港で一向に搭乗手続きが始まらなかった。
すると、こういうアナウンスが入った。
「シンガポール航空1234便は約3時間の遅れとなる見込みです」
僕はゲートまでつかつかと行き、航空会社の女性に理由を尋ねた。
しかし返答はなし。
ひどく気分を害した。
乗客を待たせるだけでなく、理由すら知らせないとは何ごとか!
同じ飛行機の遅延でも、別のときはこんなアナウンスが入った。
「シンガポール航空5678便は、運行上の理由により、約3時間遅れる見込みです」
曖昧きわまりない理由だが、僕やほかの乗客を落ち着かせるには十分だった。
人間は「理由」を知りたがる。
たとえ根拠のない理由であっても、私たちには理由が必要なのである。
人の上に立つ人間は、そのことをきちんと理解するべきかと。
「理由」を告げなければ、社員・メンバーのモチベーションは低下する。
例えば、あなたが靴メーカーを経営したとしよう。
靴メーカーの存在意義は靴をつくることにある、と言うだけではだめなのだ(靴メーカーはまさにそのために存在しているのだが)。
たとえば、こうした経営理念を掲げなくてはならない。
「当社の靴で市場に革命を起こす」(よくあるのは、こんな感じだろうか)、あるいは「女性の足もとを飾ることで、世界を飾る」などというのもいいかもしれない。
これにおいては、何を語るかはまったく重要ではない。
あるとき、妻が洗濯するときに、黒っぽい色の服と青っぽい色の服を入念に分けているのを見た。
僕に言わせれば意味のない行為で、少なくとも一人暮らしを始めた18から現在にいたるまで、いっしょに洗って困ったことは一度もない。
「どうして青いものと黒いものを分けるんだ?」と僕は尋ねた。
「分けて洗うほうが好きなのよ」
僕にはその答えで十分だった。
結論。
理由は必要である。
「〇〇なので」というちょっとした言葉は、人間同士の潤滑剤の役割を果たす。
思うは…
対人関係での接点、こまめに洗おうかと🤗
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